研究

若手研究(2回目)に採択された件

なんか全然更新していないので何か書くことにした。

以前の投稿で申し上げたように、科研費で若手研究に落ちて挑戦的研究(開拓)に採択されるという謎状況になっていた私。その続報を書く。

これもかなり事後報告になってしまうが、3打席目にして(2連続で落ちてる)、やっと若手研究(2回目)に採択いただいた。(去年の話。なので今は若手研究2年目の夏。)

しかし、これは併願していた基盤Bが不採択だったということを同時に意味している。やはり基盤Bの壁は高い。研究の蓄積が相当に必要とされるのだろう。

しかし、困ったことに私の研究スタイルでは、独立した複数の研究テーマを皿回し的に進めてきているので、1テーマあたりの業績があまり溜まっていないのだ。先日、研究紹介をする機会があったので整理してみたら、大まかに4つのテーマ(4本柱)が走っていて、それぞれに意外とバランスよく研究助成も割り振られていることが明らかになった。

思い返してみれば、求職中だったD3やPDの頃は年間に15件以上はどこかに応募していて、しかも応募先は当時の専門分野だった地球・環境科学系の求人が非常に限られていることもあり、理学部はないけど一般教養科を持っているような私立大学などを中心に、物理だろうが化学だろうが生物だろうが地学だろうが書きまくっていた。

こういう、分野に見境がない感じとか、「応募するだけならタダや(郵送費や印刷費を除く。メール提出できないどころか、紙提出かつデータCD提出みたいなところは滅べ)」の精神でとりあえず書きまくるところは、昔から変わっていないように思う。申請書のいいところは、データがなくても書けることである。実際そういう申請の仕方をしている人は少ないと思うけど。

気に入ったのでもう一回言う。「申請書はデータがなくても書ける。」

まあ、とにかく若手研究(2回目)は、その4本柱のうち1本の内容を今後も進めていくうえで必要な資金が手に入ったということで大変ありがたい採択であった。

そして、これで若手研究に再び応募する権利を失ってしまった。若手研究が終わったら、次は基盤研究や挑戦的研究が中心となってくる。

最も望ましい展開は、同時受給が可能な基盤Bと萌芽の2本体制である。基盤Cだと挑戦的研究に出せないし、併願できていた国際Bはなくなってしまった。

しかし、基盤Bの壁の厚さに直面している現状、再来年の新規申請で勝てる基盤Bを書く自信がない…

 

そういえば、去年参加した学会で、尊敬する大教授と食事をする機会があった。その大教授は、ほんとうにすごい先生なのだが、研究費に落ちた話もおもしろおかしく話してくれるから本当に最高だ。

それで二人して机を叩いて笑えたのが、落ちた研究費申請書の審査員評価でたまに見かける、「実現できるか疑問である」みたいな指摘だ。実現できるかどうかわからないから研究するので、お金をちょうだい、って言ってるの!という話である。

私は実は、まだ開始していない研究テーマを、開始するために申請書を書くことがしょっちゅうある。それが研究費申請というものの第一義的な扱い方であるはずだ。

でも、実際的な戦略としては、すでにある程度イケてるデータが取れている研究テーマについて、予備データというテイで実現可能性をチラつかせつつ、(もう本人は分かっているのに)それが分かったらすごいことだ、的な論理構成にするのが賢明なんじゃないか、と悪魔の囁きが聞こえてくる。

ほんとうにこれからやる予定のことで申請して、採択されて実際にやってみたらちょっとしかできませんでした!みたいな報告書を書こうものなら、事後評価とかいうシステムの餌食だ…

また、「思いついたときには研究はほとんど終わっている」という話もよく耳にする。どういうことかというと、

〇〇という背景があるので△△を研究する必要があり、××ということがすでに分かっているので、■■を実施すれば、△△が明らかになる

というロジックがよくあるが、すなわちこれからやる■■は、本当にそれで△△が明らかになるのであれば、そこにはもはや研究と言うよりも作業しか残されていないじゃあないか、という話である。

実際には、たいがい狙ったとおりの結果が得られないので、それで本当に「研究」が始まってしまうわけだ。
皮肉にも、申請書に書いた計画と見通しが正解だったなら、研究は作業(計測)となり、逆に見通しが甘いからこそ研究なのである。

それは研究を何と定義するかにもよるんだろうけど。一般的には「仮説・検証」が科学と呼ばれていて、その「検証」を私がいかにも単純そうな「作業」と呼ぶのはいささか暴論なのかもしれないが、私はどうしても「研究とは試行錯誤の連続の総体」、ととらえているので、仕方がないのかもしれない。
私と名前が70%くらい一致しているから、くらいのアホな理由で中谷宇吉郎(なかやうきちろう)の「科学の方法」を読んだことがあるが、そこから私は一体何を学んだのやら。

それと、よくいろんなところで引用されている、エンリコ・フェルミが言ったとかいう「結果には2つの可能性がある」という話にもあるように、仮説がしっかりしていれば計測と言う名の作業は、科学を駆動するうえで基本中の基本の非常に大事なところだということは、間違いないだろう。

 

なんだか、私は「作業」という言葉にものすごく嫌悪があるみたいだ。ちょっと脱線しすぎたので今回はこれくらいにしておこう。