教育

成績評価の在り方について考えたこと

前期の授業の成績評価が終わった.

あとは,異議申し立てへの対応(ないと信じたい),授業アンケートの確認だけ.

生成AI時代に突入して,入学試験にしろ授業の成績にしろ,成績評価の在り方(「能力」というものの捉え方)が再認識されるべき時代になっているように感じる.

教育者はレポートなどでの成績評価の際に生成AIが何らかの不利益をもたらすのではないかと心配になっているし,その対策のために余計な労力を割く必要に迫られている.

 

ところで,日本社会の学歴観は何か間違っているように感じることが多い.
大学の卒業認定の難易度が下がりきってしまっている現状では,学歴=出身大学=大学入試時点での頭脳=(場合によっては)18歳やそこらの脳みそ
で就活などの場面で人が判断されてしまう.

高校生のときのテストの出来で人生が決まっている.

かといって,経験を重視するAO入試などの台頭は,子供時代の家庭状況による経験格差を広げるだけ.つまりは経済格差が経験格差となり,それが学歴として反映され,この「学歴観」によって学生が社会に出るときの出口が決まる結果,格差が再生産されてしまう.

そういう意味では,「18歳やそこらの」結果であることは気になるが,ペーパーテストの能力で序列をつけるというのはBetter than Nothingな帰結だと思う.

「18歳やそこら」を気にしている理由は,18歳までの間に勉強漬けにするだけでは得られない経験やチャンス(たとえば部活であるとか)を犠牲にするかどうかという重い選択を子供に強いることになるからだ.

実際私は高校3年生の秋まで部活に打ち込んで(同期の中には夏前に引退する人もいたが),そこから必死に頑張ったが,第一志望の大学の前期入試に落ちてしまった.(幸い後期入試で第2志望に合格し,浪人は性格的に難しいとの判断でそのまま入学したが)

多少の浪人が世間的に認められているように,高校までは部活などの課外活動に精をだして,そのあとにゆっくり勉強して入試を突破する能力を身に着ける,というのでも何ら問題ないと思う.

格差という意味では,塾や家庭教師をつける経済的格差や,優秀な指導者が多いかといった都会と田舎の地域格差はどうしてもペーパーテストに反映されてしまう.

とはいえ,持ち込みナシのペーパー上で「記憶力」「計算力」「思考力」を問うというスタイルは,ひとに序列をつけて選抜するうえでは必要な過程と思うしかない.

 

話を大学の成績評価に戻そう.

大学の授業をするのに資格は不要で,統一された教育理論があるわけではない.内容も評価方法も,かなり授業者の裁量に任されている.そのような状態で,成績評価はどのようなものであるべきか.

大学のような高等教育の場面では,成績評価は「学習者がカリキュラムや授業の到達目標に対してどの位置におり,今後どのようにしていくべきか」のフィードバックを受ける装置であるべきだというのが私の持論だ.

授業は,到達目標を達成したかしていないかが第一に重要なはずだ.そこに順位や段階評価をつけることにどのような意味があるのか.

優秀な人が自分が優秀であることを自覚する,劣っている人が自分が劣っていることを自覚する,というのは,学習者のモチベーションを高めるのに有効な可能性がある.
どうしてもいい成績がとれない科目は自分に合っていないし,簡単にいい成績が取れる科目は自分に向いているかもしれない.幅広く学んだ中から自分に何に適性があるのかを判断する材料としても機能するかもしれない.きわめて健全だ.

この理屈だと,学習者は不正行為や卑怯な手をつかって自分を偽る意味がない.

しかし,だ.

もし,この成績評価が自分の人生を左右する数字として扱われるならどうだろうか.つまり,大学でのGPAが大学院入試や就活で使われたり,東京大や北海道大のように進学するコースを決める際の優先順位にされたり,研究室配属の優先順位にされたり,奨学金の返還免除対象者の順位になるとか…

それは,いい成績を取る(=質の高い学習をする)ための努力をするモチベーションになるかもしれないが,それは不正行為を行う動機にもなる.

国家試験みたいなペーパーテストをゴールとするような授業(医歯薬系に多いと推測される)なら,不正を取り締まってペーパーテストをするのでOKかもしれない.

では,ペーパーテストをゴールとしない(できない)ような「学問」の授業では?

 

再度,私の持論としては
大学のような高等教育の場面では,成績評価は「学習者がカリキュラムや授業の到達目標に対してどの位置におり,今後どのようにしていくべきか」のフィードバックを受ける装置であるべきだ.

この理屈では,成績評価されるうえでズルによって学びを得られなくなるのは学習者の不利益であって,ズルに対する防止策を講じる動機は教育者側には無い.
不正者がいた場合に,他の学習者が正確な相対評価を得られないという不利益が発生する恐れがあるが,不利益を承知でズルをする異常者が存在しえないくらいに,大学の成績に対する社会の認識が変わっていることが前提だ.

どうしても大学の授業で優劣をつけることを社会が要求するというのなら,教育者はAIを使ってペーパーテストを量産して,学習者は持ち込みナシの試験成績のみで評価されるようにしたらいい.社会は大学の学問の授業に何を望んでいるのかと問いたい.

大学に「大学教育の質保証」を求めるというのが最近の教育行政のトレンドのように思う.これを拡大して「学生の」質保証のために公正な成績評価で順位付けをせよ,と言う奴が出てくる.

いやいや,質の高い人材を見抜くのは常に人材を選ぶ側の責任だろう.成績評価法が統一されていないうえ,レポートなどに生成AIを使う事ができてしまうこの時代,順位付けのための成績評価は破綻しつつあり,そんな成績や大学名に学生の質の判断を任せるべきではない.

 

生成AIの適切な利用について,各大学が声明を出している.

教育でのAI利用の是非に関する議論も活発だ.教育者たちが,どうすべきか必死で考えている.

しかし私の考えでは,レポートの作成などに生成AIを使ってよいかどうかを判断するべきは学習者だ.
AIを使った自分を評価してほしいのか,AIを使わない自分を評価してほしいのか,学習者が自らの学習意欲に基づいて判断すればいい.
その判断の手助けを,教育者が行う.
AIを頼らずに勝負するべき学問なのか,そうではないのか,その学問の知識観をつたえるのが教育者の役目だ.

 

いま,教育者は生成AIの使用に目を光らせなければならなくなってしまっている.

しかし,そんなことは本質的には必要ないはずだ.

そのための要件として,

  1. 社会や大学が成績を「学習者が自分の現在の到達度を理解し行動変容につなげるための装置」であり「最終的な能力を表す数字ではない」と認識し,成績を何らかの順位付けには用いないような雰囲気を醸成することで,成績評価を受ける際にズルをする動機を学習者に与えないようにする.
  2. 生成AIの適切な活用を支援するために,その授業の知識観や到達目標の意義を学習者に伝えることが重要であると教育者が認識する.

ことが必要になる.

教育者は,AI使用の有無に関係なく,最終的な成果物を公正な判断基準で評価して学習者に伝えればよい.

 

とはいえ,これからも大学の授業の成績で何かしらの順位付けは行われていくだろうし,それを踏まえた公平性の要求は続く.

指導要領のないはずの大学で,「学問」そのものを学ぶはずの大学で,教育者の自由がどんどん狭くなっていく.