昔話です.
私の卒業した高校は,山口県山口市という日本で最も人口の少ない県庁所在地のひとつである半端な田舎町の真ん中にある公立の進学校.
地元有数の進学校なので,山口市以外にも,萩市や防府市といった隣町からバスや電車で通学してくる生徒も多いです.
ありがたいことに,私は高校から自転車で10分もかからない実家に住んでいました.
この高校では,勉強して東大か京大に入るか,野球部に所属することが最も偉いとされていました.
なぜ野球部に所属することが偉いかというと,別に強豪校だからというわけではなく,なぜか伝統的に野球部の夏の選抜だけ応援の生徒を運ぶ貸し切りバスが用意されたり,野球部専用のマイクロバスがあったりしたからです.他にも業績残してる運動部や優秀な文化部もあるのにね.野球部に所属することは偉いことなのだと考ると,辻褄が合います.したがってこの高校で野球部であることは偉いのです.
んで,やはり勉強には先生も生徒も気合が入っていて,毎朝いろんな教科のプリントが昇降口に置かれていて朝勉強できるし,職員室前には長い机がずらっと並んで,先生が親身に質問対応してくれるし,課外授業も充実していました.
本当に素晴らしい勉強環境でした.
さて,今回のテーマは「無自覚的な努力と自覚的な努力」です.
私も勉強は一生懸命やるほうの生徒だったと思うのですが,高校1年生のある日,あることに気が付いたんです.
電車やバスで長時間かけて通学してくる生徒には,強制的な勉強時間が毎日ある.
まず,その電車やバスに乗っている1時間.単語帳とか読めますね.
そして,田舎あるあるですが,便数が少ないので登校時間(8:30)に余裕をもって間に合うような便で学校につくと,だいたい4,50分くらい登校時間までに時間が余るんですよね.その一本後にすると本当に遅刻ギリギリになってしまう.
彼らは,この2時間弱を,毎日強制的に与えられているわけです.
高校一年生のある日,なにか理由があってかなり早めに学校に行ったら,遠距離通学のクラスメイトが何人か既に教室にいて,単語帳読んだりしてるんですよ.
私は,この毎日の積み重ねは後々大きな差になる,と思いました.
そこからの高校生活は,どうかしていたと思います.
朝は6:00に起床して(朝練のある中学生の弟と一緒に起きれば良い),7:00に家を出発し,7:10に高校着.もちろん生徒の中で一番乗りです.
7:15くらいに用務員さんが昇降口のカギを開けるので,そこから教室で8:30まで勉強.
7:30くらいから電車バス通学組が来るので,おはよう!と元気に挨拶します.
勉強の内容は,その日の授業の予習です.時間が余れば朝プリントか単語勉強.
ほとんどの授業は予習必須だったのですが,予習を朝にやることにすれば,放課後は塾での教材に集中できます.
私は,高校の勉強での努力と言えば,この朝の1時間強の勉強だったと思います.
このために7時までに弁当を準備しなければいけなくなったのは母ですので,もちろんこの努力は私一人のものではありません.毎日たっぷりの栄養満点の弁当を作ってくださり,それが高校生活を支えてくれました.身長も15cmくらい伸びました.
電車バス通学組が強制的に与えられて,勉強で埋めていた朝の2時間.これを,私は「無自覚的な努力」だと思っています.無自覚というと少し語弊があるのですが,意識しなくてもやらざるを得ないもの,というニュアンスです.
たぶん,私が起きる時間よりも早く起きて,場合によっては弁当も用意して,長い距離を通学してきているのですから,それは大変な苦労があり,毎日の努力があったと思います.
この人たちに劣らないために,地の利のある私は早起きして朝勉強するという「自覚的な努力」を始めました.
無自覚・自覚,どちらが優れているか,という話ではありません.
私が言いたいのは,努力が無自覚の世界に突入した(すなわち「当たり前のこととして習慣化された」)人は強いし,後々になって努力しない人とのその差が大きくなる,ということです.
そして,その努力は,他の人からは見えにくい!高校の横に住む人が登校時間ギリギリに駆け込むような生活をしていると,なおさら気づかないのです,小さな無自覚の努力の積み重ねから,自分がじわじわと引き離されていることに.
無自覚の努力をする環境にない人は,自覚的に努力して追いつく他はないのです.